かつて、私は、妻と一緒に彼女の友人のアパートに泊まりました。私たちは、以前からその人が衣類を熱心に収集していることを知っていましたが、未使用の衣服(値札がついたものも多い)だけでなく、多くの靴箱を見て驚きました。
妻の友人は、完璧な上着や靴を見つけることに執着し、うまく見つかったら、自分の社会的イメージが正しく整い、そこに喜びを感じているということが、次第に分かってきました。でも残念なことに、新しい服を買って帰ってみると、求めていたものとは異なって感じたのです。そして、その人は、完璧な服装を探し続けたのです。
その時、私はその人の悩みが奇妙だと思い、理由を探るのに苦労しました。その後、会わなくなってから、最近まで彼女のことを忘れていました。しかし、新しいウォーキングシューズを買うことになって、突然、彼女とその執着を思い出しました。
販売員が、私に合うサイズの靴を持ってきました。その時は、急いでいたので、直接、店に立ち寄って時間やお金を無駄にせずに、必要な靴だけを選ぶことに決めていました。しかし、販売員が2つの箱を手にして「黄色と青色のどちらにしますか」と尋ねたとき、私の決心は損なわれました。「黄色、いや、青。。。」 色の選択を求められて、ナイフにさされたような気がしました。最終的に黄色を選びましたが、帰る途中、「青のほうが良かった!」と後悔していました。
私は、この単純な選択ついて自分自身が不安を覚えていることに驚きました。黄色か青色かの選択を大きな問題だと思ったのはなぜでしょう?決断したばかりのことを後悔したのはなぜでしょう?強迫観念に囚われている友人のことを思い出したのは、その時です。
物質的身体に住まう精神的存在である私たちは、一時的な住まいである物質的身体によって自分自身を識別するため、物質的水準の選択に苦しんでいます。
バガヴァッド・ギーター 2.22によると、クリシュナは「人が古い衣服を捨てて新しい衣服を着るのと同様に、魂も古い物質的身体を捨てて新しい物質的身体を受け入れる」と述べています。
言い換えれば、私たちの物質的身体や人生の一時的な状況は、友人の住居にあった服や靴のようなものです。そして、私が靴の色の選択に迷うときに覚えた不安感は、幸福をもたらす完璧な組み合わせを見つけようとするときに起こります。
自分の外側の充足を求めると、常に自分の内側で不満が燃えさかるということなのです。
古代の聖人が次のように書いています:
「この物質的世界では、物質主義者は皆、幸福の達成と苦痛の軽減を求め、それを追求する。しかし、実際には、幸福を努力して追求しないときにこそ、幸せを感じるのです。幸福を追求する活動を始めたとたんに、苦痛が始まります。
私たちが、物事の中に満足を追求すれば、自分自身と真の幸福の間の隔たりが大きく広がります。しかし、この隔たりを埋めることは、思いのほか簡単です。その秘密は簡単です:自我に執着せず奉仕することです。
デール・カーネギーの著書「道は開ける(How to stop worrying and start living)」は、不安の底に陥った個人がいかに立ち直るかという問題を扱っています。カーネギーは、本の中で「他の誰かに何か良いことをしようと考えてください」と助言しています。あなたが自我に執着せず奉仕しようと思った瞬間に、不安から回復し、成長を遂げることもできます。
与えることで、私たちは成長し、限りない喜びを得られます。
私たちの神聖な根源に向けて奉仕することは、樹木の根に水を注いで樹木全体に栄養を与えるのと同じく、私たちの内面から自分自身を養うことです。究極の知恵の本であるヴェーダは、自分自身を含むすべての起源である神性的根源は個人的であると説いています。この個人的な神性的根源に向けて奉仕することにより、私たちの行為は完全に整い、無限の幸福を味わうことができます。
アシュラムに居住していた時期のある日、私は大きな空腹を覚えました。昼食の鐘が鳴ると、食べたい一心で混雑した食堂に急ぎました。しかし、到着して、給仕当番の僧侶の一人が欠席しているのに気付きました。私は、病気で給仕当番の義務を果たせない同僚の代わりに、その仕事を引き受けることが義務であることを知っていました。しかし、私はとてもお腹が空いていたのです!それでも、「無私の奉仕が魂の飢えを満たす」というグルの言葉を思い出して、落ち着きを取り戻し、他の修行者に給仕するための持ち場につきました。この決断は正しいと感じました。お腹を空かせた他の僧侶に給仕するにつれて、空腹を忘れ、自分の心も満足を覚えていました。むしろ、楽しかったのです。
このような奉仕は、愛と感謝のヨガであるバクティヨガと呼ばれています。
バクティヨガを実践すればするほど、幸福感が増してゆきます。
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